野狐禅
2002.10.6(SUN)/小樽 一匹長屋 【ワンマン便器】
小さな小さなステージに彼らが立った。
音源は聴いていたけれど、姿は見たことが無かった。
アコースティックギターとハープとピアノ。フォークが根にあることを強く感じさせる曲達だ。
吠えるダミ声と乱暴とも言える詩。ピアノは非常に柔らかく、初秋の西日のように全体を包み込んでいる。
その印象から、少なくともボーカルはガタイが良く、ふてぶてしいのだろうと勝手に想像していた。
普段は「音楽居酒屋」であるというこの店は、横に6人並んで座るテーブルが縦に2つ学校形式に並び、横の壁に沿うように5人用のテーブルが一つ、一段高くなった奥に5人程のカウンター、その隣に5人ぐらいのボックスのある、テーブルもイスも天井も壁もすべて、木が剥き出しの温かな空間だった。
そのそれぞれのイスがいっぱいになり、それでも35人ぐらいだろうか。
昔からの知り合いのような人が多いらしく、和やかにザワザワした中で二人がステージに立った。
ギターとボーカルの「竹原ピストル」君は、Tシャツに短パン、アゴヒゲ、頭に白いタオルに裸足。野性的だ。想像してた程大きい人ではない。
キーボードとコーラスの「濱埜宏哉(はまの ひろちか)」君は、Tシャツの上に綿シャツとカーゴパンツ。華奢で小綺麗でおとなしそうな青年である。
竹原君の持つギターには、幾万回とも知れない程に腕を振り下ろして出来た傷。
濱埜君がキーボードを弾く指は、女の人のように白くて細く、長くて綺麗だ。
どこから見ても対照的な二人なのである。
右手首にはめているリストバンドだけが、色違いのお揃いであることが印象的だ。
マイクスタンドを低く低く構え、膝の位置まで下がったギターをこれでもかと掻き鳴らし、中腰で唄う。
その左の濱埜君は、弾いている間中はずっと下を向き、とても柔らかなタッチで音を紡ぐ。
激しいギターと繊細なピアノの音が、何とも言えず調和する。激しいけど繊細さが奥に覗くボーカルと融合する。
「這いつくばった回数が勝負だと、立ち上がった回数が勝負だと」
どんなにかっこ悪くてもボロボロでも、何の為なのかなどわからなくても、這ってでも生きていく。
こう唄う人がまた居てくれたと、心が震えた。
生きる為にわざと必要なものを置き去りにしたり、思い通りにならない苛立ちをぶつける先がわからず吐き気がする程苦しんだり。
そんな自分を見せつけられて更にもがき苦しむ。情けない自分、弱い自分、ずるい自分。
そんなのをすべて抱えても生かねばならない。
そうだ、生きようじゃないかと。
野狐禅は、自分に向かって叫び続けてる。放出してるわけじゃない。
自分の汚いところ、情けないところ、弱いところを認めるために復唱してるみたいなもんだ。
でもそれが届くのだ。
自分の心が手を伸ばし共鳴する。
強がって生け、情けないなんてわかってる、それでも生け。自分よ。
と、そう宣言しているのだ。
見たこと無いぐらいに汗が床にしたたり落ちている。
竹原君の足元は、木の床が濡れて光っているのを通り越し、床に染み込んでそこだけ色が変わっている程だ。
ハモニカホルダーからも汗がしたたり、頭のタオルももう汗を吸い込まない。手も汗で濡れ、滑ってピックが指をすり抜ける。
もう、マイクに貼ってある予備のピックが無いので素手で弾き続ける。それでも変わらず力一杯弾いているから、血が噴き出してしまいそうだ。
少ししたら、足元に落ちているピックを拾った。安心した。
「乱暴な言い方ですが」と前置きし、
「聖書を読むぐらいなら就職情報誌を読んでください。」と言って唄い始めた「初恋」。
「僕のこの両手は神に祈るためでなく 人生を這いずりまわるためにあるんだ」
「拝啓 濱埜くん」
どんなに仲のいいグループと言え、相棒の名前入りで相棒に唄う唄など聴いたことがあるだろうか。
まるで直球だけれど、その真っ直ぐな気持ちに涙がさらに溢れてしまうのだ。
「ずっとこうして一緒に唄っていこう」
「拝啓 濱埜くん」と唄うところで、竹原君に背を向けた形で店にあったピアノを弾いていた濱埜君が振り返る。
この光景だけでまた泣ける。もう、泣かせてくれ。ほっといとくれ。
旭川の「フォークジャンボリー」という店で歌っていたという彼ら。
今日も駆けつけ、前座を務めてくれた店長への唄。その店長が今回のツアーをも企画したのだという。
言葉は悪いが愛と感謝に溢れたこの唄を、どんな想いで聴いていたのだろう。
私の目の前にその店長が座っていたが、どんな表情をしていたのだろう。私には見ることができなかったけれど。
「幸運にも大きな人の前座という機会をもらって、大きな大きなステージで、たくさんのたくさんの人の前で演らせてもらえました。
とてもとても楽しかったです。その楽しかったということを前提としてですが、こういう小さなフォーク小屋ではずっとやっていきます。こんな近く、こんな目の前にお客さんがいるというのは、とても怖いです。その怖いという気持ちをずっと忘れずに持っていたいんです。だから、小さいところではずっとやっていきます。」
表現が不器用すぎるとか、発売している音源が少なくしかも入手しづらいとか、いろんな理由でたくさんの人には伝わりづらいかもしれない。
でも、触れたら届く人には必ず届く。
いずれ、こんな小さなライブハウスでは出来なくなる日が来るかもしれない。
だからこそ、強く美しくこの信念を持ちつづけて欲しいと心の底から祈った。
誰しもが、少なからず悩みや不安や孤独感を抱いている。
それを音楽で癒し埋めるのではなく、音楽によってもっともっと追い詰められ、もっともっとギリギリの状態へ追いやって、そうして自分を見つめ直す。
真正面から真剣に自分と向き合って見つめ直したら、足りないものは何なのか、どうすればいいのかうっすらとでも見えてくるだろう。
どうしたって生きなければいけないということがわかるだろう。
癒されたいための癒しなら、マッサージやアロマテラピーで得ればいいのだ。
音楽とは生きるために相対していたい。
野狐禅のライブは、そういう大切な機会をも与えてくれる。
生きるために一心不乱に荒波を泳ぐ魚が落としたうろこのように見えた、ステージに散らばった数枚のピック。
それを、野狐禅の生命のかけらとしていただいて帰ってきた。